「努力なしで成功なし」





「鶴竜」というしこ名をもらう少年は、入門時、全く期待されていなかった。親方がそう思うのも無理はない。モンゴル相撲は遊びでやった程度。日本からスカウトに来た親方による選抜大会でも落選した。

それでも相撲への情熱は負けなかった。テレビで放送された日本の大相撲中継を見て、モンゴル人力士の先駆者である旭鷲山らにあこがれた。「自分もやってみたいな」。角界入りを希望する手紙を日本語に翻訳してもらって郵送した。回り回って井筒部屋に手紙が届き、ついに入門がかなった。

来る日も来る日も稽古に明け暮れた。「ただただ一生懸命上をめざして必死にやっていた。どんなことに対しても負けたくないという気持ちがあった」。好きで入った世界。相撲をやめようと思ったことは一度もない。

「熱が出たり、けがをしたりしたときを除けば稽古を休んだことはない」と井筒親方。同じ時津風一門として入門時から一緒に稽古を積んだ幕内の豊真将も「(鶴竜は)よく稽古していた。努力、勤勉さを見習わなくてはいけない」と話す。

父は大学教授。モンゴル相撲の大横綱を父に持つ白鵬、同じく父が活躍した朝青龍や日馬富士とは異なり、親戚にはモンゴル相撲で実績を残した人はいない。

「モンゴル相撲で強かった親や親戚の遺伝子がないと大成しない」などという母国からの声が届いても、鶴竜は意に介さない。「遺伝がないと強くならないということはない。その人の頑張り次第。努力して一生懸命頑張ればできるんだ」という。

順風満帆の出世街道ではなかった。体を大きくするのに苦労し、三段目で2年間足踏みした。三役でもがき、朝青龍・白鵬を相手にした横綱戦では初挑戦から27連敗も経験した。186センチと上背はあるが、148キロの体重は幕内では下から数えた方が早い。小所帯の井筒部屋は力士が少なく稽古相手に恵まれているわけではない。

胸に刻んでいたのは、師匠から教えられた「努力なしでは成功はない」という言葉だった。地方巡業の朝稽古では土俵を独占する光景が見られ、巡業部長からは「鶴竜が一番光っていた」との評価がたびたび聞かれた。十俵の外での努力も欠かさなかった。ビデオを見て研究を重ね、最近では体重をこまめに管理し、取組の反省点をノートに記すようになった。

「一歩一歩経験を積み、精一杯やることをやってきた」。土俵生活も11年目となり26歳となった鶴竜にはコツコツという言葉がよく似合う。(日経新聞327

 

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